この家は、一代で終わらせるには価値がありすぎる。

長持ちする家をとことん追求し続ける社長のブログ

2006年07月

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ログハウスも大体形になってきた頃、9月から初めて平成に変わった3月だったと思います。
高校2年の従兄弟がバイトに使ってくれと、背が高く、髪の毛が真っ赤で眉毛のない同級生を連れてきました。
その高校生が、今では、立派に更生した、グリーンライフの番長こと、佐藤部長です。

まず、仕事をやらせた第一印象は、器用、早いでした。


同じ頃の時期に、赤いハイラックスに乗って、めがねをかけた中年の男が尋ねてきました。


「この辺に土地を探してるんだけど、、、、」


とふらっと立ち寄ったのが、「大工のできる仕事はやらない」家具職人(この時はバリバリのログビルダー)

今井さんです。


この二人が居なかったら、この二人との出会いがなかったら、間違いなく今のグリーンライフはないでしょう。


また、同じ時期に、前回紹介した愛妻との出会いから急転直下で、結婚することになりました。


また、親父の昔の造園仲間が突然尋ねてきて、ゴルフ場の仕事を一緒にやらないかと誘われたのもこの頃でした。


この時、すでにグリーンライフと名前を変えて建築をやろうとしていたのですが、ログハウスだけでは受注もないしどうしようかと思っていた時なので、渡りに船でした。


ということで、話は全てとんとん拍子に進み、何の計画性もないままグリーンライフは本格的に船出をしたわけです。

スタート時は、ログハウスを今井さんと、数年前になくなってしまいましたが新潟の高橋さん、そして佐藤番長ではじめ、銀行から融資を受けて1棟目としてハンドカットのモデルハウスを自宅の隣に建設することになりました。


私はというと、今日のご飯を食べるために、後ろ髪を引かれながらゴルフ場通いの日々でした。


そして私事ですが、平成2年の7月1日にめでたく結婚しました。



この年の4月に磐梯園芸センターからグリーンライフに名前を変えた訳ですが、グリーンライフは私が考えました。


良く、由来はと聞かれますが、いたって単純です。


グリーンは、やはり、造園やでしたので、、

ライフは、その当時「ウッディライフ」という雑誌があり、それを見ながらログハウスの夢を描いたり建築をする際の参考にしたりしてました。


それで、そのライフをとり、合体させたという単純なものです。



ただ、これは、自分ひとりで考えたわけではなく、当然、大株主で創業者である親父の意見も出ました。
親父の意見は、とにかく凄いです、強烈です。
それだけはやめてくれとお願いしました。
その名前とは・・・・・


「有限会社 磐梯山麓土地建物(ばんだいさんろくとちたてもの)」・・・


多分、バブル崩壊と共にこの世からなくなってしまうような名前だったのではないかと思います。


名前って大事ですよね。


ちなみに、木をデザインした今でも使っているロゴマークもその時に一緒に私が考えたものです。
その木の樹種は、もみの木です。シーダーではありませんのであしからず。


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その当時、ようやくログハウスの法律(丸太組基準法)が出来たばかりで、役所の人も良く分からなかったと思います。


同級生の設計士に手伝ってもらい、どうなることかと思いましたが難なく建築確認をクリアし、無事に着工することに。
(実は、当時の法律では、最高の高さとか、色々と違法建築でした。)


ログハウスの知識はもちろん、建築の知識、輸入のノウハウもなにもなく始めたわけです。

ログハウス関係の書籍を買いあさり、まずは、工法をどうするか決めなければいけません。


まずは、収まりが簡単なので、丸太じゃなく角材にすることが決定、次にグループは上下に溝を掘り、
その溝に木を差込み隙間が出ないようにするのと、横ぶれを防ぐこととしました。


ノッチ部分については、さすがに頭が回らなかったので、知り合いの大工さんにお願いすることにしました。


多分、この頃が一番人生で楽しかった時期だったと思います。

もちろん今も楽しいですが、あの頃は、何も考えず、ただ、毎日のログハウス造りを楽しんでいたように思います。


毎日のように友達や知り合い、そして、ご飯をちゃんと食べてるのかと親戚の人がご飯や差し入れを持参で手伝いに来てくれて・・・

休憩時や昼食時は笑いが絶えませんでした。


1月の末だったと思いますが、前の家の引渡しがあり、出て行かなければいけなくなり、
まだ、窓も入っていないログの一室の開口部をブルーシートで囲い、そこに寝泊りしてました。


本人は、それすら楽しんでいたわけです。

マッキンリーを経験した自分にとっては、仮設とはいえ、電気はつくし、水道はあるし、ストーブはあるし、そして屋根がついてるは、マッキンリーと比べればもう、これ以上の環境はないわけです。


しかし、親戚をはじめ、周りの人たちはかなりかわいそうだと思っていたらしいです。


そんな状況の中、あまりにもかわいそうだったからと本人は言ってますが、毎日朝ごはんから届けてくれたのが今の愛妻です。


毎日、心配した親戚の叔母さんが3日分くらいのカレーライスを作ってきてくれたり、お見舞いにもらった缶詰を食べたりして生き延びてました。

体重も今より15キロくらい少なかったと思います。


そんな時に、朝から暖かいお味噌汁が届くのですからたまったもんではありません。


でも、その優しい気持ちは少しは今でも変わりません。


本当に感謝してます。


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まずは、新しい自宅を建てる場所の選択ですが、まずは雪が降るので、除雪が大変なので幹線道路の脇でなければいけません。


また、とりあえず自宅を建てて、その周りに建物を建てて、なにか商売をしたいという夢も描いていました。


そして何よりも、前の家が、大雪だと車も入れないような場所でしたので、車椅子で生活できるのが条件でした。


そこで、白羽の矢が立ったのが、今の場所です。


ところが、その土地の前は用水路が流れてて、車がやっと通れるような幅2mにも満たない橋しかありません。


その上、面積は約1000坪あり、申し分ないのですが、造園の仮植場だったので、ようするに、ジャングルでした。




まずは、橋つくりです。


もちろん経験はありません。


病院のベットの上で、親父にやり方を聞きながらの作業です。


正直、ものすごく不安でしたが、大型のダンプやレッカーが何度も渡っても落ちてませんので、多分大丈夫です・・・。



橋の工事がなんとか終わると、次はジャングルをきれいにしなければいけません。


1,2年ほったらかしだったので、ひどいものでした。

まさに、大げさですが、開拓者になった気分で毎日格闘してました。


手伝ってくれた人など、全身蚊に刺され、次の日高熱が出て大変なことになったこともありました。


そして、ようやく基礎工事に取り掛かるまでになりました。


平成元年の9月でした。


外出許可が出た親父も出席しての地鎮祭がとりおこなわれました。


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「親父があんな怪我をして、お前は長谷川家の跡取りなんだから、危ない仕事はやめろ」


と親戚や知人が心配してくれました。


景気も良かったので、何のキャリアもない21歳の若造でも、町内の有力企業、町役場、いろんなところから沢山のオファーがありました。


ただ、さすがに給料は「それなり」で、入院中の医療費は多分、その当時5万円以上は補助が出たとしても、個室の差額ベット代や、24時間付き添っている母親の食事というか、生活費。

それだけで月に20万くらいかかっていたと思います。

到底、普通の給料では生活できません。


重機を売っても借金に消え、貯金は0です。

そして、重度障害なので、保険金は死亡した場合と同じ金額が保険会社から出るはずですが、親父は大の保険嫌いだったらしく、怪我する1週間ほど前に、保険の勧誘に来た時も、断ったそうです。
仕事中の怪我なので、「労災保険」も出るはずですが、代表者は、特別な高額な労災保険に加入していないと出ません。
もちろん入っていませんでした。


要するに、まとまった保険金は出なかったのです。
唯一でたのが、銀行で付き合いで入っていた積み立てに保険がおまけでついている商品で、数百万だったと思います。


なので、両親と私、そして、将来の妻、子供達は、私の稼ぎで生きていかなければいけない状況になったわけです。

今考えると、大変な境遇だったわけですが、その当時は、そんな不安がなかったように思います。


当時の地元では、あそこは親父の怪我で保険金が沢山出て、息子は仕事もせずに家をログハウスで建ててるという噂が流れていたようです。


ものは考えようですが、


もし、あの時多額の保険金が出て、労災保険も出ていたら、、、、


間違いなく今のグリーンライフは存在していなかったと思います。


人間、余裕があれば、そんなにがんばれないと思います。


もし、親父が怪我をしなかったら、、、、


山でのたれ死んでたか、


ウイスラーのバイトのままカナダに住み着いて、ビックロックホームズ でで働いてたか・・・・


まじめにどちらかでしょう。




この年は、ちょうど昭和から平成に変わった年です。

日本全国、将来に不安を持つ人がいなかった時代ではなかったでしょうか。

また、その頃は、日本でもログハウスがブームになり始めた頃だと思います。


とりあえず、就職は後回しにして、売れそうな田畑を売りに出したり、住んでいた家を売りに出し、退院後の車椅子の生活にも不便をきたさないような家を造る計画を親父と病院で練り始めました。


それが、現在の自宅であり、グリーンライフとしての第一号のログハウスです。


自慢ですが、一回もメンテしてません。


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それまで、もちろん自分で段取りをした時もなければ、考えて仕事をした時もなかったのですが、いきなり零細企業とはいえ、会社の代表取締役として、日々の段取りをする立場になったのです。


21歳の時でした。


その当時年齢のことを知るとみんなに凄いねと言われますが、今考えれば、言うまでもありませんが、自分の実力ではなく時代が助けてくれたのだと思います。


バブルで仕事が選ぶほどあった時代でなければ、誰も21歳の何にも知らない若造にわざわざ仕事を与えてはくれなかったでしょうし、通用していたとは思えません。


本当に、運が良かったと思います。


もちろん、数え切れないほどの多くの人たちに助けてもらったのは言うまでありません。


心から感謝しています。



なんとか、親父が残した(受注)仕事を終え、どうしようかと思いましたが、とりあえず、この仕事をこのまま続けることは不可能なので、借金も残っている重機を処分することにしました。


当時、規模のわりにかなりの台数の重機がありました。

ユンボ(パワーショベル)0.9が1台、0.7が2台、0.4が2台、

ブルトーザー が結構大きいのが2台

大型ダンプが2台

4トントラック(クレーンつき)1台

種子吹き付け機が1台


多分、こんなもんでしょうか。


景気も良かったので、処分するのにはそんなに時間もかかりませんでした。

それより、そんなに重機を持ってるんだったら、仕事をくれるから仕事を請けてやってくれと逆に言われるような状況でした。

結局、次の年の春まで仕事をすることになりました。冬の間は仕事がないので、病院でリハビリの手伝いと大型免許などを取ってました。

この頃の仕事でつらかったのは、最後に全部重機を引き取ってくれた会社の仕事だったのですが、箕輪スキー場のホテルと駐車場の造成工事です。


11月~12月頃だったと思いますが、恐らく氷点下15度以下で、今と違って、重機も暖房がちゃんとしていないので、ガラスが曇ってしまうので寒くても窓を開けての作業です。

ブルトーザーに乗る時は、屋根しかついていないので、地獄です。

マッキンリーの装備をそのまま着込みましたが、それでも夕方には手足が動かなくなるくらいでした。

今だったら、いくらお金をもらっても絶対にやらないと思います。

絶対に絶えられません。


また、ホテルの造成工事の時は、掘削したその機械上部で、片方のキャタピラが外れてしまい、身動きが取れなくなり、その場で重機を解体して出すしかないと言われましたが、みんなに迷惑をかけるし、売れば2、3百万になるので、片足で一歩間違えば自分で掘削した穴に崩れ落ちるような状況の中、なんとか脱出に成功したこともありました。


とりあえず、この頃は、世間体とか、自分のプライドとか、危ないとか、世の中の常識とか、自分の中から吹き飛んでました。


今思うと、何もかにもが普通の人の常識からも大きく外れていました。


ただ、この時の経験が、人並み以上の精神力に鍛えられたのだと思います。 (良くも悪くも・・・)


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